2006年02月22日

労働は苦役

内田さんの記事を読むと新鮮な切り口にはっとされることが多く、「なるほど、そういう見方もあるか」と楽しみに読ませて頂いている。しかし、時々「なんでそうなるのか分からん」「それは元の趣旨に繋がってないじゃないか」と思ってしまうこともある。以前のエントリ「街場のアメリカ論」もそうであったが、今回の記事もその例である。


内田樹の研究室:不快という貨幣

彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。 だが、どのようなロジックによってそんなことが可能になるのか。 骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得るということは可能なのか?
私の仮説は「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得したというものである。

「働かない」と「労働しない」は彼らにとっては等価ではないという大胆な仮説を立てているが、

労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。 労働するのが人間なのだ。 だから、労働しない人間は存在しない。 はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。 私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。

人間はすべからく労働するものだという大胆な大原則は、彼らにも当然当てはまるものらしい。*1
そして、彼らの優越感の源泉はなにか。

彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。 たいへんよく出来たシステムである。

つまり、彼らは働いてはいなくても不快な気分を持つことで自分は労働していると認識し、他人に不快感を与えることで達成感と自己有能感を感じる、という話らしい。僕には全く分からない。彼らに「労働していると認識」することが何の役に立っているのか。自分も不快な気分になっているのならば他人と「お互い様」であり、その状況でどこから有能感を引き出せるのか。

僕の解釈では、彼らにとって労働は不快なものであり苦役である。自己実現とか達成感を得るようなものではなく、ひたすら辛いものであり、出来ればやらずに過ごしたいと皆が望んでいるものである。労働者は、世間体というプレッシャーや迫りくる窮乏生活に逆らうことが出来ないので嫌々働いている。労働者は、「自分らしく」生きることが出来ず、世間や金銭の奴隷になってしまっている可哀想な人達なのだ。

それに引き換え、働いていない彼らは主に親の経済的援助で生きているわけであるが、それによってもたらされる生活は十分満足のいくものである。自分が経済的自立をしてしまえば明らかに生活レベルは下がる。それならば親の庇護下に留まった方が実利が大きい。これは極めて合理的な判断であり、唯一の障害は世間からの「他人と同じように働きなさい」というプレッシャーである。しかし、「自分らしく」生きるために、そんなプレッシャーに負けたりはしない。こうして奴隷にならずに強く生きている自分には達成感も自己有能感も溢れかえる。

こう考えると、かの有名な言葉
「働いたら負けかなと思っている」「今の自分は勝っていると思う」
も以前より抵抗無く受け入れられる気がするのだ。どうだろう?

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*1 不快を感じることで労働とするという考え方は時々日本で見られる「我慢した人が一番偉い」といった考え方に繋がる気がするが、ここでの本題ではないのでまた次の機会に譲りたい。

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