2005年12月05日

「街場のアメリカ論」

アメリカと日本の違いについて考えることが最近多くなっている。そのためのインプットの意味も含めて内田樹「街場のアメリカ論」を読んでみた。

この手の本に良くあるような、筆者のメインの主張が繰り返し何度も出てくることがほとんど無い。11章に分かれているが、それぞれの章で見事なまでに異なるトピックを扱っていて、直接内容が重なる部分がほとんど無い。著者が調子に乗ってどんどん進んでいくようなところが散見されるが、全体的にすらすら読めて、ユニークな指摘に感心したり唸ったりできる、読んでいて面白い本だ。特に「まえがき」が秀逸。

日本のナショナル・アイデンティティとはこの百五十年間、「アメリカにとって自分は何者であるのか?」という問いをめぐって構築されてきた。その問いにほとんど「取り憑かれて」きたと言ってよい。
記号学が教えるように、意味は差異のうちに棲まっている。記号とは「それが何であるか」を言うものではなく、もっぱら「それが何でないか」を言うものである。私達のナショナル・アイデンティティもまたそれと同じように、私たちが「誰でないか」という記号的な「引き算」によって成立している。

各章がてんでバラバラのように見えるが、まえがきで大枠を規定してくれているのでどこまで話が飛んでいくか不安になることなく読み進めることが出来た。

しかしながら、この読みやすさの割には「分からない」ところもある。すらすら読んでいて、突然そこで止まって何度も読み返したりして、それでも未だに分からない。例えば、第8章「アメリカン・ボディ」から引用。

低所得層の人々の大半は相変わらずジャンク・フードを食べて、テレビの前でごろごろしている。というか、そうなることをほとんど不可避的に選択させられている。
どうして低所得層の人々は「ジャンクをやめて自然食のにんじんを齧る」とか「TVを止めて本を読む」とかのオルタナティヴを提示できないのかと言うと、それは、差別され、社会的リソースの公平な配分に与っていないという彼らの怒りを社会に向けて発信しようと望むなら、彼らはその階級的な怒りを誰にでもわかる仕方で表象することを余儀なくされるからです。

あの低所得層の人々は怒りを発信しようとしているので、カウチポテトな生活を送っていると言うことなのか?彼らはそれを楽しんでやっているのではなく実は怒っているのか?その行動と彼らの体型は純粋にドメスティックなものだと思っていたが、それは社会へのメッセージの発信だったのか?

僕が読み取った限りでは、上記全ての疑問への答えは「イエス」らしい。「怒りの発信」の動機が生まれる仕組みも、「ジャンクフード」が「怒りの発信」に繋がる理由も僕には全く理解できていないのだが、誰かこの意味をもう少し分かりやすく教えてくれないだろうか。

こういうスタイルの本は、この分野の初心者(僕)にとってはいい本なのかもしれない。分からないところが色々あるので、読み終わってスッキリとは行かずに、頭の中をぐるぐる回っているのだ。

追記:疑問点が分かり易いように一部追加。

Trackback on "「街場のアメリカ論」"

以下4件のトラックバックはこのページのエントリー"「街場のアメリカ論」"を参照しています。

このエントリーのトラックバックURL: 

» 『街場のアメリカ論』

  • 2005年12月07日 01:11
  • from 岡田昇の研究室

内田樹先生の新著をようやく読み終わった。この本も、「原因」というのは、「原因がわ [続きを読む]

» My son was born in 1983

  • 2005年12月07日 08:44
  • from asyuu@forest

息子と生年月日が一日違いの人の某記録を読んだ。 仕事上知りえたことなので、詳細はここに書けないが、 育った環境、現状など「マイナスの磁場」にあふれている... [続きを読む]

» 老を得て殖を望む

  • 2005年12月07日 10:25
  • from 404 Blog Not Found

これを読んで、脊髄反射で本書を思い起こした。 Leviathan Thomas Hobbes 佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン... [続きを読む]

» 都合のいいLOHAS

  • 2005年12月07日 16:21
  • from 非日乗的日乗inowe社長blog

昨日、久しぶりに日付の変わらないうちに帰宅。11時からテレビで平和舟(仮名)系のキャスターのやっている報道番組を観ておりましたら最近流行のLOHASを取りあげて... [続きを読む]

Comment on "「街場のアメリカ論」"

「街場のアメリカ論」を読んでいて、貧困層がステレオタイプなふるまいをするしかないということに、深く賛同しました。
以前、仕事で貧困の最前線の人々と接したことがあります。彼らは、もちろん貧困層であることを自慢しているわけではありません。「怠け者」という言葉だけで、片づけることもできません。

「貧困の連鎖(貧しい家庭に生まれると、貧困が末代まで続く)」という厳しい現実もあります。
彼らは、社会的リソースの恩恵を社会福祉(経済的給付)という形でしか得ていません。
「人はパンのみに生きる者にあらず」。だからこそ、文化とか広い意味での教養を、人は欲するのかもしれません。

そのような「機会」に恵まれない人々は、屈折した自己主張しかできないのかもしれません。
でも、それを変えていくのにはどうしたらいいんでしょうね。

「経済的給付」のみに拘泥するのではない社会福祉が必要なんでしょうけれど。

--------------------------------------
トラックバックありがとうございました。
こちらからも、TBさせていただきました。
また、訪問させていただきます。


asyuuさん、興味深いコメントありがとうございます。
私も、ほとんどの貧困層の人々がステレオタイプな振舞いをするしかないというところには賛同します。
疑問に思ったのは、本当に彼らは社会に怒りを発信しようとしているのか?というところです。それならば怒りを内に抑えられればディケンズを読んだり水泳を始めたりするのか?なぜ「怒り」が原因になるのか?その辺が分からないのです。

Post a Comment

コメントする
(HTMLタグは使用できません)
ブラウザに投稿者情報を登録しますか?(Cookieを使用します。次回書き込み時に便利です。)
  •  
  •