2005年09月11日
差別が生まれる構図
圏外からのひとこと「差別が生まれる瞬間」に共感するところ多し。実際に外国人として生活をして、特に初めの頃はよくこの手の行き違いをして、気まずい雰囲気になったり馬鹿にされたり喧嘩したりした。日本人を相手にしたことが無い人よりも既に日本人をたくさん相手にしている人の方がハナから日本人を馬鹿にしている気もする。逆に、しばらくぶりに日本に帰って、そこでポカをやってしまったこともある。
大学生の頃、周りには留学生がちょくちょく居た。母国語以外の言語で大学の勉強をこなすのはすごいなと当然思っていた。日本に慣れてないし言葉も不自由なので、失敗や行き違いが少々あっても仕方ないだろうとも思っていた。彼らが何か失敗をしたときに「これは言葉とは関係ない間違いだよな、つまりこいつはちょっと抜けた奴なんだな」と思うこともちょくちょくあったが、彼らのハンディキャップをフェアに考慮した上での判断だった。自分は彼らの状況をちゃんと斟酌した、理解のある友人だと思っていたのだ。
そして月日は流れ、実際に自分が外国に住んでみると、これがまたものすごく広い範囲のものについて、自分でも信じられないような失敗を沢山してしまうことに気がついた。ある日、こんな失敗を日本でだったらするわけないのに…と思いながら、ふと昔のことを思い出した。そうだ、昔留学生だったあいつも「ちょっとあほ」だったわけではなく、単に慣れや言葉の問題での失敗をしただけだったのかもしれない…自分の「慣れによる影響の範囲」の解釈が狭すぎたのかもしれない…と思い至る。そうだったとして、じゃあなぜあの時に黙ってないで事情を説明しなかったんだよ…と思い、ひょっとしたら言葉の問題で申し開き出来なかったのかもなあ…ともう10年以上前のことを反省。その結果、自分の失敗と過去の他人の失敗でダブルで凹む夜を過ごした。
どちらが悪いわけでもなく行き違いが起こる。どちらが悪いわけでもなくこじれる。どちらが悪いわけでもなく歩み寄りが見られず、後には不愉快な気分と差別が残る。この連鎖を断ち切ることが出来るのは、結局は事情をより知っている方が(自分の失敗に気づいて「あちゃー」と思っている方が)頑張って自分の知っている事情を真摯に伝えることしかないのではないか。そう、言葉の壁が立ちはだかるので非常に難しいのは分かっているのだけれど。
ここまで考えて、改めて元記事を読み返すと、一部に強い違和感を覚える。
「うわっ、そういう訳だったのか」と思う間もなく、「お待たせしました」と声をかけられて、私はちょっとした質問と案内を依頼した。頭の中では、「しまったなあ、不機嫌に『すみません』とかせかして悪かったなあ」と思っているが、会話が進むので、それを謝る暇がない。
しかし、それは一瞬のことで、すぐに職業的な微笑が復活し説明はあっという間に終わり、私は謝罪する機会もなく、カウンターを後にした。
謝罪する機会はあるだろう。会話を始める時に謝罪できる。虚を突かれて直ぐ用事の話を始めてしまったのならば、最後に事情を説明しても良いし、途中で話を中断して謝罪しても良かったのではないか。ネット上でのコミュニケーション能力に非常に長けている essa さんだが、実生活での情報伝達については少々落ちてしまうということだろうか。この場面で謝るということの方が、今まで彼がブログで纏めてきたコメントの応酬よりずっと簡単そうに見えるのだ。少なくとも僕には。
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