1999年04月22日

週に5日ケンタッキー

英語は道具である。少なくとも僕にとってはそうだ。賛成してくれる人もたくさんいると思う。それでは、それはどれぐらい強力な道具か。この質問の答えは、人によってまちまちだろう。

バイリンガルの人の中には「大したことではないよ」と言う人が多い気がする。子どものうちに英語圏に住めば誰でも話せるようになる、英語が出来てもどうしようもない人もたくさんいる、英語が大事なのではなくて、それで何をやるのかが大事なのだ。

僕はこの意見に反対できない。スキー板を買ってもスキーが出来るようになるわけではないのと同じように、言葉を知っててもうまい使い方を知らないと何も出来やしないだろう。自分がやるべき「何か」がないと、どんな道具があっても効果的には使えない。

それでは、とりあえず今すぐやりたいものを持っており、それをするために道具としての英語が必要な人ならばどうか。そういう人が思うように道具を使えない場合(僕の場合だ)、これはもう歯がゆくて仕方が無い。パワフルな道具を簡単に使いこなせる人がひたすら羨ましい。道具の使い方を学ぶことに多くの時間を費やし、既に完璧に使っている人がその時間を使わなくてよいことをを羨み、またいくら時間を使ってもそのレベルには永遠に辿り着けない事実を受け入れざるを得ない。不器用に道具を使いながら、もっと自分のやりたいことのみに時間を集中できたら、もっと良い道具がこの手にあれば、と反実仮想を繰り返す。

強引に喩えるなら、英語という道具はパソコンという道具と似ているかもしれない。それ自体が好きだという人もたくさんいるが、とりあえず僕にとっては道具は本質ではない。道具が良くても良い結果が出せるわけでもないし、悪い道具を使っても良い結果が出せないわけではない。ただし、良い道具は信じられないほど便利である。新しいアプリケーションは常に軽い驚きと興奮を与えてくれ、大幅アップグレードした後は世界が広がったような気さえする。一度道具を持つともっと良いものが欲しくなり、良いものを手に入れると昔の悪い道具を使っていたことが信じられなくなる。それまでに悪い道具を使って得た経験がおもちゃのようなものに感じ、道具を通して経験することの密度や質までも大きく変わる気がする。上位機種のことはずいぶん気になるが、下位機種ユーザーに羨ましがられても別に気にならない。

僕がここに書いていることも、道具をさらに使いこなせるようになった何年後かの僕が見ればおもちゃのようなものに感じるのかもしれない。1年前に会話能力向上のためによくやっていた「ドライブスルー複雑注文チャレンジ」を、今懐かしさと恥ずかしさとともに思い出すのと同じように。

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